明治から大正にかけて鰊(ニシン)漁が盛んだった頃、鰊漁で財を築いた大網元が莫大な費用をかけて建てられた住居と漁業の作業場所を兼ねた建物(番屋)は、鰊御殿(にしんごてん)と呼ばれています。
なかでも、積丹半島の有数の鰊網元であった田中福松が建てた番屋は、最大規模を誇る鰊御殿で、全盛期には網元家族とヤン衆と呼ばれる雇い漁夫100人以上が寝泊まりしていたそうです。
田中邸は、昭和33年に泊村から小樽市北部の祝津地区に移築された後、小樽市に寄贈され、現在は「小樽市鰊番屋」として一般開放されています。
建物内には、鰊漁や鰊の加工に使われた道具や、鰊番屋で暮らしていた人々の生活用具、写真等が展示されています。
祝津地区を通る道路の脇には、番屋等がいくつか残っています。
田中邸のすぐ近くにあるこちらの廃屋は「近江番屋」。
この地区のニシン漁の三大網元(青山家、白鳥家、茨木家)の一つ、「白鳥家番屋」。
茨木家は、網元の家族と漁夫が別の建物に住んでいました。
こちらは「茨木家中出張番屋」。漁夫の住宅のほう。
そして、明治45年に初代・茨木與八郎によって建てられた茨木邸。
現在も住宅として使われているそうです。
鰊御殿と呼ばれる番屋の中には、「銀鱗荘」や礼文島の「桃岩荘ユースホステル」のように宿泊施設として利用されているものもあります。(2006年、2018年訪問)