標津第二航空基地は、標津村(現在の標津町)の川北地区に計画されたもので、1943年(昭和18年)に測量、1944年(昭和19年)に建設工事が行われました。建設にあたり、用地にあった138戸の農家は強制的に移転させられ、工事のほうは、大陸から強制連行された朝鮮人等によって厳しい労働条件のもと行われ、犠牲者も出たそうです。
1948年(昭和23年)に米軍によって撮影された航空写真では航空基地跡の全容が確認できます。
滑走路の北側(画像上方向)には土を盛って造られた無蓋掩体壕が。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
基地は、長さ1,200m、幅200mの滑走路と長さ1,300m、幅120mの予備滑走路、弾薬庫8棟、掩体壕12基、兵舎2棟、司令室、通信室、主計室、戦闘指揮所等の建物が建てられ、兵員28名が配置されましたが、終戦まで軍用機が使用されることはありませんでした。
1976年(昭和51年)に撮影された航空写真では、戦後も滑走路跡がそのままの状態で残されていたのが確認できます。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
標津町は滑走路東側の軍用機を格納する掩体壕4基が集中して存在する場所を町の文化財に指定しました。
しかし、遺構は見学できるような整備がされず放置され、現在はその存在が確認できない状態になっています。
2012年には標津町とシャープが事業協定を結び、滑走路跡に大規模太陽光発電所(メガソーラー)が建設され、2014年より稼働しています。
滑走路跡の北部には、戦闘指揮所跡とされる地下壕が残っています。
内部はコンクリート建築で、写真では確認できませんが、地下方向に傾斜した連絡通路の先にはドーム型の地下室と小部屋が設けられているそうです。