1989年に廃線となった国鉄天北線に「飛行場前駅」という名の駅がありました。
天北線の線路が通っていた部分は、現在はサイクリングロードになっていますが、道路脇には駅跡が残っていて、「飛行場前駅」も笹に埋もれた木造のホームと駅標の枠が確認できます。
駅標のほうは、猿払村で保存・管理されています。
現役だった頃の飛行場前駅の写真。
飛行場前駅の名は、国鉄民営化に伴い改名されたもので、旧駅名は「飛行場前仮乗降場」。
周辺の浅茅野大地は、今は牧草地が広がる北海道ではよくある景色ですが、太平洋戦争時には、ソビエト防衛を目的として建設された大日本帝国陸軍(旧日本陸軍)の浅茅野飛行場が近くにあったことから、この駅名が付いています。
浅茅野飛行場は、第1飛行場(1944年完成)と第2飛行場(1943年完成)があり、第1飛行場は飛行場前駅近辺に、第2飛行場は30kmほど北にありました。
1948年に米軍が撮影した航空写真。
中央から下にかけて第一飛行場跡が確認できます。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
そしてこちらは、同じ年に撮影された第二飛行場跡。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
第2飛行場のあった場所は、現在は道の駅「さるふつ公園」や村営牧場になっていて痕跡はありません。
第1飛行場は、飛行場前駅から山側に進んだところにあり、途中に天北線から飛行場までの引込線に使われていたものとされるコンクリート製の橋脚跡が残っています。
少し先には、飛行場の門柱が2つ残っています。
その近くにある水槽跡。
中央の針山のようなものは水槽の支柱です。
雑草が生い茂った時期だと見つけるのは困難。
飛行場の施設や滑走路のあった所は、現在は農地(牧草地)になっています。
しかし、農地の奥には滑走路脇にあった掩体壕の跡が残っています。
ここの掩体壕は、無蓋掩体壕と呼ばれる、天井の無い爆風や破片を除ける土堤のみの簡易的なもの。
高い位置から見ると、コの字型になっているのが確認できます。
私有地、かつ牧草地であるため、立ち入るには所有者の許可が必要です。
原野を開拓し、飛行場を建設するために使われた労働力のほとんどは朝鮮半島から強制連行された人達で、その数は2000人超。
不衛生な労働環境での重労働を強制され、感染症の流行や監視者による暴行で数百人が亡くなったと言われています。
多くの犠牲者を出し、完成までに数年を要した浅茅野飛行場でしたが、第1飛行場、第2飛行場とも、完成後まもなく終戦となったため、ほとんど使われることなく閉鎖されました。