1880年(明治13年)8月、突然十勝の奥地にトノサマバッタの大群が発生し、日高から胆振に入り、一群は海岸沿いに蛇田方面に、一群は札幌方面を襲いました。

数百万数千万のバッタが飛び回り、日蝕のように太陽が陰ったり、地表は見渡す限りバッタで覆われて、足の踏み込む余地もなくなりました。

しばらくしてバッタの去った跡は、一面はぎ取ったような赤土となって、農作物だけでなく、外に干してあった衣類までも跡形なく食い尽くされました。

バッタは翌年も発生し、その勢いは前年の倍にもなり、被害も激しくなったことから、明治政府の開拓使は駆除費を計上し、防除に努めたがバッタの害はその後も続き、防除費も年々増大していきました。

我が国の虫害史上類のないバッタの被害は5年間続きましたが、1884年(明治17年)に全道的な長雨が降り、卵がふ化せずに腐ったため、終息しました。

このバッタが大発生した時に、卵や幼虫を積み上げて、その表面に土を厚く盛り上げて打ち固めて生き返らないようにしたものが「バッタ塚」と呼ばれるもので、新得町の新内地区には土盛のまま残っている所があります。

国道38号線沿いにある新内パーキングのスノーシェルター脇に、バッタ塚への入口がかつてありました。

バッタ塚02

しかし、手入れされないまま時が過ぎ、雑草が生い茂り、案内板も朽ちてしまいました。
現在はここからバッタ塚へ行くのは相当の藪漕ぎをしないと無理。

バッタ塚03

国道の脇道を入り、そこから分岐する旧狩勝線跡の林道へ。

バッタ塚04

しばらく進むとバッタ塚が現れます。
土盛が確認できます。

バッタ塚05

新内地区のバッタ塚は、1991年に町の史跡に指定されています。