こどもの国は、神奈川県横浜市と東京都町田市にまたがる総合公園で、1959年(昭和34年)の皇太子殿下(現・上皇陛下)の御結婚を記念して国民から寄せられたお祝い金を基金として、1965年(昭和40年)5月5日(こどもの日)に開園しました。
広さ100ヘクタールほどある敷地は、敗戦後日本に返還される1961年までは、接収した米軍が弾薬庫として使っていた用地でした。さらに遡ると、戦時中は旧日本陸軍の弾薬の製造や貯蔵を行う施設がありました。
1947年(平成22年)に米軍によって撮影された航空写真では、中央上方に対になった弾薬庫の入口が確認できます。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
1938年に国家総動員法に基づき、この地の住民が強制的に退去させられ弾薬庫の工事が開始。そのための労働力の多くは強制的に集められた朝鮮人だったそうです。
1941年に旧陸軍田奈部隊が発足してから弾薬庫の本格的な利用が開始しました。
1942年には弾薬輸送を輸送するための専用線(横浜線長津田駅~弾薬施設間)が開通。
その後、専用線は、こどもの国開園にあわせて「東急こどもの国線」として整備されました。
園入口を進んだ先の広場まで専用線が通っていましたが、痕跡はありません。
内周道路に沿って歩くと、両側に弾薬庫の遺構が確認できます。
弾薬庫は全部で33基造られましたが、土に埋没したり池に沈んだりして現在確認できるのは10数基となっています。
道路との境部分が1段高くなっているのは、弾薬を輸送するトラックや荷車の高さに合わせるため。
弾薬庫は、出入口が左右2カ所あり、コの字型をしていて、内部の大きさは幅25~30m、奥行7m、高さ4mあるそうです。
こどもの国提供資料
出入口は封鎖されており、内部の見学は原則できません。
弾薬庫の上ににょきっと飛び出しているのは、庫内を換気するための換気塔の遺構。
中には、こどもの国の施設(倉庫、変電所、浄化槽)として再利用されている所もあります。
園内を散策していると、内周道路にある弾薬庫とは違う形をした施設の遺構を発見。
ネット情報でもヒットせず…何の施設だったのでしょう、気になります。