調布飛行場は、1939年(昭和14年)に当時の東京府が、畑や山林を半ば強制的に買い上げ建設に着手、1941年(昭和16年)に公共用飛行場「東京調布飛行場」として開設されました。基礎工事には府中刑務所の受刑者等が動員されたそうです。
空港の東口には、飛行場の竣工時に正門として設置された門柱が現在も残っています。
戦時中は、旧日本陸軍が航空基地として使用、戦闘機「飛燕」を中心とした飛行部隊が配置され、迎撃や特別攻撃隊(特攻隊)の訓練施設として首都防空の重要な拠点となりました。
太平洋戦争の戦況が悪化する1944年(昭和19年)頃から、本土決戦に備え、残り少なくなった貴重な軍用機を温存するため、短期間に有蓋掩体壕(コンクリート製の屋根のあるもの)30基、無蓋掩体壕(周囲を土堤で囲ったのみで屋根がないもの)30基が飛行場の周囲に作られました。
終戦後、進駐軍(GHQ)により占領を受け、滑走路は補助飛行場として、西側の未舗装の敷地は水耕農場として使われていましたが、1950年(昭和30年)に一部が返還、そして1973年(昭和48年)3月には全面返還されました。
1948年(昭和23年)に米軍によって撮影された航空写真では、滑走路跡の左側に大規模の水耕農場が確認できます。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
1992年に国から東京都へ飛行場の管理が移行し、現在は都営の空港として小型機による伊豆諸島(大島、新島、神津島、三宅島)との定期便が運航しています。
1997年(平成9年)撮影の航空写真でも当初の縦横に交差する2本の滑走路跡が確認できますが、
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
直近2017年(平成29年)撮影の航空写真では、東西方向滑走路の一部の運動公園への転用等により確認できなくなっています。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
北端に旧滑走路の一部が残っていました。
戦時中に作られた有蓋掩体壕のほとんどは取り壊され、現存するのは4基のみ。うち3基は地方自治体によって整備され常時公開されています。
こちらは、三鷹市の武蔵野の森公園内にある2基「大沢1号」と「大沢2号」。
そして府中市の住宅街の中にある「白糸台掩体壕」。
4基目は、私有地にある掩体壕。
工場の建物と一体化しています。