別保炭砿の本格的な採掘は、1896年(明治29年)の山縣勇三郎の山縣炭砿の創業に始まります。その後、1908年(明治41年)に山縣炭砿は釧勝興業に継承。
一方、1906年(明治39年)には、大阪から進出してきた大阪鉱業が大阪炭鉱を開鉱。14年の操業後、三井鉱山(株)に買収され、釧路炭鉱が開業しました。
三井鉱山(株)は、釧勝興業も買収した後に、隣接する釧路市の木村組釧路炭砿とさらに合併し、1920年(大正9年)年4月に太平洋炭砿「別保坑」が誕生。1940年(昭和15年)には戦前期最多の34万6千トンの出炭となりました。
その後、太平洋戦争の激化に伴い制海権を失い、船舶による石炭輸送ができなくなったため、1944年(昭和19年)に九州の三井鉱山田川鉱業所に鉱員は配転となり、休坑となりました。
終戦後の1946年(昭和21年)11月に再開されたものの、鉱区の衰退、採掘条件の悪化等から、1949年(昭和24年)に太平洋炭鉱「別保坑」は閉山しました。
1948年(昭和23年)に米軍によって撮影された航空写真では、別保川の支流沿いに炭鉱施設が残っているのが確認できます。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
2011年(平成23年)に国土地理院によって撮影された航空写真では、炭鉱施設があった場所が住宅地になっているのが確認できます。
出典:国土地理院Webサイト(当該ページのURL)
住宅地の一角には、現在も炭鉱施設の遺構が残っています。
こちらは選炭施設の遺構と言われています。
そこから少し北にある山は、採掘された鉱石のうち、石炭としては使えないものを積み上げてきたズリ山(ボタ山)。
黒い山肌が確認できます。